Mr.Xはかく考ふ

 龍馬塾(基町)への子ども達の参加がだんだんと自発的になってきました。基町の子ども達は集団で、それも異年齢集団で遊ぶのが特徴的ですが、2月5日も小学5年生の女の子の組、5~6年生の男の子の組、そして一人でやってきた小学1年生の女の子が先着組でした。その後中学2~3年生の男の子達が数名、三々五々とやっ
てきました。

子ども達だけではなく大人も集まってくるのが龍馬塾です。基町の元祖ボランティアおばさん(80代)や基町団地住民リーダー層のお一人である高齢者ご夫婦(70~80代)もやってきました。また予期せぬゲストも参加されました。家を出て遊び仲間達の家を泊まり歩く中学2年の男の子のお母さんがいらっしゃったのです。「子どもの家出」を嘆き悩む母親に対し、老夫婦からは「今こそただ抱きしめる愛を」と叱咤のアドバイスがかけられました。また私からは「いつのまにか世間の価値観に流されて生きる大人のアタマを変えませんか?」という考え方をお伝えしました。家出をして遊び回り親に心配をかける行為は褒められるものではありません。しかし「成績が下がって、いい進学ができないと本人も困るから」という理由だけで子どもを家に学校に縛る親にも問題があると思うの
です。そんな理由では子どもを納得させるだけの力がないのです。
 そもそも、人生とは何のためにあるのか、学校とは何のためにあるのか、子どもだけでなく親も教師も考えてみるべきではないでしょうか? 学校が「目的をみつけるためではなく手段を学ぶ」ところに成り下がっている現状にこそ問題があるのではないか?学校が存在することが当たり前になってしまっている、そこにこそ問題がある・・・私はそう感じるのですが。

 いま、日本人が日本社会が長年考えることなく、ただただ踏襲してきた習慣を見直す風潮がたかまってきています。いつのまにか結婚式から「媒酌人」や「●●家」が消えつつあります。葬儀も大がかりなものから「密葬」や「家族葬」へと変わりつつあります。学校も、試験も、学生服も、リクルートスーツも、一度「何のために?」と考え直してみてもいいのではないでしょうか?

 その延長線上に位牌も仏壇も戒名も見えてくるはずです。学校だけでなく役所という存在なども大部分が無用な機能になっているかもしれません。

 日本人が今まで縛られてきた風習には、政治的な理由で意図的につくられてきたものが少なくありません。とりわけ徳川時代に創られた寺請け制度や「お上」意識、「宮仕え意識」などはその代表格といえるのでしょうか。
 維新政府以降も徳川を打ち消そうとして廃仏毀釈などを試みましたが失敗し、その後徳川時代の反省も無いままに軍政時代や戦後へと進んでいきました。日本は市民革命のチャンスを逸したのです。徳川の負の遺産、それはおそらく「住民に、集団から漏れることを恐れさせる気持ちを抱かせて支配すること」なのでしょうが、それを打破しようとしたのが龍馬でしょう。

 もうみんなが一度は脱藩して世の中全てを、自分の人生そのものをリストラ(再構築)するべきときにあると思います。