思い立ったが吉日!

先日、塾頭、Mr.X、Mr.Brainとメールでやりとりを交わし、その内容からぜひブログへという話になったので、こちらへ掲載します。皆さんもぜひ、議論に入ってくださいませ。

 

塾頭さま、Mr.Xさま

お世話になります。
日本の住宅の変遷をかじっているときに、ふと思いついたので、忘れないうちに先生にご意見をうかがいたいと思い、メールしております。
現代の環境で、どうやって理想に近い(と個人的に勝手に思っている)戦前、特に大正デモクラシー以前の「イエ」が持っていた子育て機能を取り戻すか・・。と、思いを巡らせていたところ、ふと思ったのは、「自宅での自営業の家庭」(もちろん農家も)が現代にある家庭環境の中でもっとも理想に近いのでは??と思いました。
・両親が常に家にいる
・両親の働く姿を常に見ることができる
・接客本位という従来の「イエ」機能
・結果的にこどもが多くの人が出入りする環境に置かれる
こうして考えると、僕は個人的に非常に恵まれた環境だったと思います。僕の実家は理容店だったので・・。私的な話で恐縮です。しかも、家には「廊下」がなく、戦前主流だった「続き間」で、プライバシーはほとんどなく、全体的に公と私が混然とした状態でした。また、玄関も一つで、店内に2階へ行く階段があり、毎日店を通らなければならないという環境でした。
最近になって、在宅就労が増えておりますが、そうしたことはもしかすると子どもたちにとって好影響を与えうる可能性を持つのではないかと思います。
が、そこに「接客機能」が必要だと思うのですが、それを現代社会の中で現代人がどう受け入れることができるか・・。
とめどないつぶやきでごめんなさい。とにかく思いついたので忘れないうちに自分のためにも思いを文章にして先生たちにご意見を伺おうと思いました。。
Mr.Brain

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コメント: 5
  • #1

    Mr.X (金曜日, 11 11月 2011 07:31)

    「店」は最高の「バリアフリー」な「コミュニケーション」の場。
    最高の「他流との申し合い」の場。
    だと思いますよ。


    多くの「店」は残念ながらビルゲイツや孫正義に生存権を奪われつつありますが。

  • #2

    Mr.Brain (金曜日, 11 11月 2011 07:39)

    気づくのが遅すぎたようですね(笑)。

    自分は大した人間ではないと常に思っていた(る)ので、幼少期は特に。
    このような考えには行き着かずにいました。
    Mr.X氏は買いかぶりすぎだと思いますが・・そんなMr.X氏に救われる自分もおります(笑)。

    僕はどうして顕著な2次症状を抱えたのか・・・
    という点は解決に至っていません。。自分を探していかないとですね。

    店は「バリアフリー」。確かにおっしゃる通りですね!
    バリアフリーで思い出しました。
    まったく話が変わるのですが、僕はハード面でのバリアフリーは人間を退化させる側面を持つので、その功罪をよく考えないといけないと思っています。
    バリアフリー=体を使わない=脳を使わない=脳の萎縮促進
    です。
    以前、「まがった廊下」に「斜めの床」がある福祉施設の話を橘さんに聞いたときに強く思いました。

    僕が住、生活環境(ハードだけでなくソフトも含め)に強い興味をもっているのは、それが人に与える影響の大きさが甚大だと感じるからです。
    僕の立場からいうのは非常に不謹慎かもしれませんが、学校の先生が与える影響はそれと比べれば小さいものに過ぎないのだろうと思います。

    もっともっとひも解いていきたいです。もっともっと意見をお聞かせください。

  • #3

    Mr.X (金曜日, 11 11月 2011 07:41)

    ビルゲイツや孫正義に邪魔されない店があるとすれば、先ずは食べ物屋、飲み屋、そして風俗店やいかがわしくない療術店でしょうか。
    龍馬塾の子ども達に仕事を、と考えたとき、「飲食店」か「療術の店」あたりがいいのかと思っていました。
    結局「対人」仕事、や「手の仕事」はITに負けないで残るということでしょう。

    人の仕事は「一生をかけてその人らしい自己表現すること」です。そしてそれをとおして「魂が学ぶ」ことです。

    職業は「自己表現のきっかけ」や「自己表現しやすいための環境」に過ぎません。職業=仕事ではないのです。

    このあたりの「仕事の意味」がわからない大人が多すぎます。

  • #4

    塾頭 (金曜日, 11 11月 2011 07:43)

    子供と住宅に関する研究は、建築関係で相当に蓄積されています。
    研究内容を詳しくみるといろいろ出てくると思いますけど、勉強不足のところです。
    細かいことの見解の違いはあるとおもいますが、大きな方向としてはMr.Brainのメールにあった指摘がされていると思います。
    ただ「お店」に着目するのはけっこう新しい視点で、今後の研究としても重要・面白いと、なるほどと思います。

    お店という点では「駄菓子やさん」に僕は注目していました。
    同様な機能がある気がします。教育機能、保育機能、加えて町の防犯機能などなど。
    この点から札幌にいる時、4年生に調査させましたが、まだ非常に中途半端なところです。

    かつては日本の住宅内でも公私渾然の状態で、それが良い機能として働いていたようです。
    (公私渾然という点では、「空間」についてもですが、室本さん達のように「活動」についても同様なことが言えると思います)

    それが極度なプライバシー重視による閉鎖性、子供部屋が分離されました。
    しかしその問題がだんだん認識されて、今日の子供部屋の捉え方も変わってきました。
    開かれた空間へと。
    ただ一方で、分離が悪いことではなく、時には一人になりたい、隠れたい空間も必要だと思います。
    それらのことも含めて、両方の重要性を満たした空間・デザイン計画が出てきたところです。

    空間だけでなく、高さ(建物の居住階数)も子どもたちに大きな影響を与えていることが分かってきました。
    とにかく高い階が(値段も、ステータスも含めて)良いとされていますが、
    逆に子どもたちの心身には危険な作用を及ぼしていることが解明されてきました。

    また近代日本において、「職」と「住」を分離させる機能主義の計画が進行しました。
    そのことにより、結果、いろんな問題が出てきた今日です。

    先の子供の環境という点では、学校・教育機関の建築計画でもいろんな試みがされているようです。
    バリアフリーの功罪も確かにそうだと思います。

    僕の学生時代の設計の先生の授業で、その方に小学校の設計依頼があって、基準法では手すりは○○センチ以上とされているけど、それは情操教育上よくないということで、低めの手すりを設計したそうです。すると行政から、基準法無視、安全上の点から子供が落ちたらどうするんだ、設計のやり直しを指摘され、それに対して、そんなんで落ちるような子供は落ちればいいんだ・・・といったような話を覚えています。
    落ちればいいは行き過ぎで発言かもしれませんが、一方、なんでも安全、なんでも便利、だったら、それはそれでまた大事な物をなくしてしまいますよね。

    「店」は「見世」ですから、非常に重要な要素というか概念を抱えていると思います。

    「お店」という点から、社会の様々な「バリア」を紐解き、これからの空間・地域・社会計画に還元していくことは面白いと思います。
    良い研究テーマが生まれました。

  • #5

    Mr.Brain (金曜日, 11 11月 2011 07:49)

    お二人とも本当にありがとうございます!
    お二人の非常に深いメッセージに感銘を受けております。

    駄菓子屋さんといえば、先週の橘さんのアイディアで、竜馬塾で駄菓子屋さんをやろうという話題が出たばかりで、このタイミングは・・・非常に示唆めいていますね・・(笑)。

    地域が担う子育て・・。最近は“子育ち”という言い方をする方もいますが、やはり子は育てるものだと思います。子どもたちを取り巻くすべての環境が育てている。
    全体がまるごと家族。世の中分けることができない渾然一体が真理、自然、あるべき姿だと痛感させられます。

    プライバシー重視の発想から、とにかく仕切って、分離していくことが、戦前の大正後期にすでに考えられていたことを最近知りました。生活改善同盟とかいう団体によって。。
    僕はこれまですべてを戦後のGHQの政策一本のせいにしていましたが、浅はかでした。
    ただ、戦争で都市部の多くの建物が失われ、そこから一から建て直すことが契機になったこともあるかと思います。敗戦したこと自体も、西洋文化の後追いを強めたんでしょうね。

    今日の子ども部屋のあり方が大きく変わってきていると聞き、すごくうれしく思います。
    ただ、ほとんど知らなかった自分が恥ずかしいです・・(恥)。
    隠れたい場所、避難場所としての部屋。確かに仕切ることで生まれるメリットですね。
    その両方を満たすデザインはすごく興味があります。
    機会があればぜひ教えてください!

    高さも子どもたちに影響を与えるという話は聞いたことがあるような気がします。
    この点も詳しくお聞きしたいところです。

    ただ、やはり数百万年かけて少しずつ積み重ねて進化を続けてきた脳ですから、それをよりよく発達させる環境は、「進化上当然あるべき自然な(普通の)環境」で間違いないはずです。
    たった数年で激変してきた現代社会という環境は、脳にとっては不自然極まりない環境。脳が進化上予測していない環境の中で、脳が発達するわけがない。

    脳は、進化上、
    多くの人間に囲まれ、応答的なことばに囲まれ、母親に抱かれ、自然な色に囲まれ、自然な栄養素を摂取し、体全身を使うことを必要とし・・・・・あげればきりがないですが、、そんな本来は当たり前にあるべき環境を予測してその環境の中でよりよく進化を遂げられるよう構成されてきたはずです。

    マンションの10階に住み、寝食分離、就寝分離の世の中を脳は予測していないはずですよね。

    文字文化もたかだか数千年の歴史しかない。(ここに教育の意義が出てくるのだと思いますが)
    対する脳の進化は少なくても数百万年。もっと言えば数億年。

    脳にとって不自然な現代社会という環境をできるだけ自然な姿に近づける・・・
    それがいま必要なのだと思います。

    それに近い姿を示している(かもしれない)のが「店」=「見世」。。

    なんだか・・面白いです!

    対極にあるのはやはりMr.Xのおっしゃるとおり、機械化、IT化でしょうね。
    これもなんとかうまく利用したいものですが・・。
    僕はまさしく自分の「仕事」を今も模索している段階にある若造です。
    正直言って、「仕事の意味」がわかっていない大人の一人でした・・(涙)。
    僕らしい「仕事」。
    今も模索中です。。

    とにかく!ありがとうございます。お二人にいただいたこの熱い刺激を糧にまたさらなるのめりこみができそうです(笑)。

    お二人とも多忙な中お付き合いくださり、本当に感謝感謝です!