グッときた言葉②

 

 

 

         人は、愛されるために生まれてくる。

 

         愛を残すために生きていく。

 

 

 

 

 

 

 

コメントをお書きください

コメント: 4
  • #1

    Mr.X (木曜日, 28 6月 2012 10:20)

    人は「愛」を学ぶために生まれてくる、ではないでしょうか?
    愛は学びの糧でもあるし癒しでもあり、存在の根源でもある。
    西洋ではエロス、フェリス、アガペーと分けて考えた(学びの段階に応じて考えた)わけでしょうが、今の日本人に憂慮されるのは、個人個人が「愛の哲学」を経験していないところにあるように思われます。

  • #2

    7歳のangelの最近の気になる言葉 (月曜日, 27 8月 2012 09:02)

    「ママを選んでお腹に入ったのよ。」


    星を指差して
    「あそこではいつもみんな近くにいられるよ、ママ。」



  • #3

    Mr.X (金曜日, 21 9月 2012 00:38)

    レスポンスが遅くなりました。さすが七歳の天使ですね。そこまで覚えていますか。私も今の人生以前の記憶はいくつか断片的にありますが、星での記憶は故郷の家の佇まいらしき記憶だけです。
    輪廻に関して、人文・社会科学からのアプローチは稀にありますが(『生きがいの夜明け』など)、まだまだ自然科学からのアプローチは無いようです。

  • #4

    自然科学からのアプローチ(輪廻) (木曜日, 04 10月 2012 10:12)

    天使ママです。

    ある科学者がわたしに話してくれた、輪廻についての科学的お話があります。
    下記、抜粋です。
    ご参考まで



    一方、うがった見方をするならば、人間社会の経済発展がもたらす環境破壊や天変地異による環境の激変を予想し、虎視眈々と次の生命につなげる種子を用意していたとも考えられます。

     地球の誕生以来、生命や物質誕生に関わる仕掛人でもある細菌や微生物の中には、“D型のタンパク質”を栄養源として代謝活動に利用し、今日まで生き長らえ棲息しているものがいます。

     その細菌や微生物の正体はペニシリウム属の一種、“アイランドカム”やバシラス属の病原細菌の “炭疽菌”、さらには一夜でキノコの姿形を失って溶けてしまうアメーバー茸の “粘菌テング茸”です。 そのキノコを食べる陸生貝類のナメクジや、蝿の幼虫も疑わしい生物の一種であると考えられます。

     それらの微生物を摂取すると、人体に “生体不斉合性”という代謝活動におけるアンバランスをひき起こし、激しい吐気や腹痛に襲われます。時には死に到ることもあります。

     L型の生命である生体が、D型の物質に対してジグソーパズルのように、うまく組み合わせ適合させることができないからです。

     獲得形質遺伝により、DNAの設計図からコピーされたRNA、生体形成を触媒するL型酵素に対して広く非特異的に作用するので、酵素が関わる代謝過程を無差別に阻害し、生体化学反応全体を無秩序と混乱に陥れるからです。

     その意味は、地球上の生命は宿命として、 “微生物から恐竜”に到るまで、二つの可能な形、L型かD型の一方のみの物質を生成し、それを利用しているという事実なのです。

     D型の物質や、それを利用する生命が必ずしも人体に対する毒性の有無を意味するものではないだけに、現時点ではそれらの影響を推し量ることはできません。

     医薬品の開発過程でD型の化学物質だけを効率的に合成し利用する研究が盛んに行なわれています。しかしながらD型の物質で、しばしば薬害がひき起されることも知られています。
               (参考)睡眠薬サリドマイド

     皆さんが日常的に疑問視されている遺伝子組み換え技術で誕生した、大豆や野菜などの漠然とした不安は、この辺りに重なるのではないでしょうか。

     さて、話が長くなりましたが、鏡に手をかざして見てください。手の向きが反対に見えるのは当然ですね。では、どのようにすればL型とD型の鏡像が、お互いに手品のように完全に重ね合わせることができるでしょうか。

     答えは、鏡の前のL型の自分が姿形、構造形状を失ってゼリーのように液状化したときです。

     その瞬間 “光学活性”という鏡が壊れてキラキラと “キラル”が夕日に輝く桜の花びらの散逸し、空間化(※絶対空間)してしまうからです。

     飛躍した発想を観点とすれば、おそらくこの宇宙が光学的磁場を中心とした鏡体状の対称時空間でできていて、DとL型の二つの古郷を、人生を共有している可能性があります。

     鏡の向こう側にあるD型の自分は、“合わせ鏡”のように、向こう側から見れば、現実の姿、実像であり、幻の映像ではないと考えられます。

     鏡の前の自分が日々生活しているように、時空の遥か彼方の、“もう一つの古郷”は宇宙の何処かの惑星に実在し、途方もない時間差があるからこそ、その星に元気に暮らす、もう一人の自分自身なのです。私達はその姿を鏡にうつるD型の鏡像を透して、かいま見ていたことになります。

     人が亡くなって、お星様になるという、おとぎ話や童話など“メルヘン”の世界は現実にあり得る話として想像が広がります。

     そして鏡の前のL型の私と、鏡の中のD型の私が完全に重なり、合一した時は地球を離れる “旅立ちの日”を意味し、 “異星人”となって夜空に輝く星の世界の住民に還ることになります。