水平目線について

勝手ながらいくつか追加提案や意見を。

●龍馬塾を『不良と引きこもりの塾』という表現から、『水平目線を学び合う塾』という表現へ改めていきたいと思います。
もちろん対外的には『非行防止とか引きこもりからの脱却』という世間にわかりやすい目標を掲げておくことは必要かもしれませんが、より「判る方」に対しては、『水平目線を学び合う塾』とか『応霊・応能な発達支援を考える塾』という考え方を出していく方がいいかもしれません。

ちなみに応霊の「霊」の文字に疑問を持たれるといけないので、WHOが言うところの『肉体的、社会的、精神的、そして霊的な健康である』という健康の定義や、
緩和ケアでは必ず学ぶシシリー・ソンダースの『全人的痛みの理解(肉体的、社会的、精神的、そして霊的な痛みを理解する)』とも相通ずる『全人格を指す言葉としての霊』を用いたことを説明する必要はあると思います。いわゆる全身全霊の霊です。

いかがでしょうか?


●気がついたこと。
『水平目線』を持つ方は、その職業や学問の専門性に逃げず、まずは自らの人格で以て相手に向き合おうとする。
専門性は、向き合い、受け止めた後に、原因の究明や具体的な対応策を考えていく際に活かせるものではあるけれど、『まずは受け止めて寄り添う』ときには専門性が邪魔をする場合があるように感じられます。

キリストの強さは『言葉以外には何も持たない』ことにあったことではないかと感じています。
まずは、全身全霊での言葉で受け止める。それが水平目線を目指すものの心得かと感じます。

いかがでしょうか?

コメントをお書きください

コメント: 4
  • #1

    Mr.X (火曜日, 10 7月 2012 18:30)

    ついでにさらに追加を。


    ●『いじめ』と『水平目線』

    ※いじめてる子どもは水平目線の大人に育てられて来なかったのではないだろうか? いじめている子どもにも水平目線は育っていなかったのだろうか?

    ※龍馬塾の子ども達に、いじめている子どもは居るのだろうか?

    ※いじめられている子どもには『水平目線による尊厳、誇り、自己肯定感』が弱いのではないだろうか?

    ※龍馬塾ではそれほど深刻ではないと思うのですが、どうですか?

    いじめ問題を考えていく上で、水平目線は重要な鍵のひとつになるように感じますが、皆さんいかがでしょうか?

  • #2

    活動メンバーN (火曜日, 10 7月 2012 18:31)

    拝読し、大変感動いたしました。
    私は、塾に足を運ぶようになって、塾にいる皆さんから、多くのことに気づかされています。
    日々、そのことに感謝しています。いわゆる年齢的に成人と呼ばれる
    皆さんたちからは、生き様や、人との接し方を教えられ、人としての大きな器を感じ、教えられています。
     いわゆる20歳に満たない未成年と呼ばれる皆さんからは、人を恨んだり、ねたんだりしないで、自分らしい
    生き方を模索しながら生きるということを教えられているように思います。
     龍馬塾に来ている皆さん一人ひとりが、「生きている」エネルギーを放ち、それが、私を心地よく、勇気を
    与えてくださいます。何か特別なことがあるわけでなく、そこにいるただそれだけでいいと思える場所、
    そんな場所だと思います。美味しい食事があって、会話があって、生きている人間がいて、それ以上何もない
    そんな場所だからこそ、龍馬塾は龍馬塾なのだと思います。
    「水平目線」、私もワークショップに参加させてください(実習に引率しなければなりませんので日程が合えば)
    「生きる力を育む研究会」素晴らしいと思います。生きる力が育まれていないのは、もしかして私のような大人なのかも
    知れないとおもう今日この頃です。

  • #3

    谷さちこ (火曜日, 10 7月 2012 18:36)

    Mr.Xの観察力に感服致しました私も感じました。
    この度先生が投げた石は素晴らしく波紋を広げますよ。
    龍馬にはいじめはないですねみんな仲良しです基町の大人たちが見習って欲しいぐらい。俺がやらねば誰がやる。今やらねばいつ出来る。の勉強会があれば私も参加したい

  • #4

    Mr.X (火曜日, 10 7月 2012 18:37)

    しつこいですが、さらなる続きです(メモ代わり)。

    ●『いじめ』と『水平目線』と『なぜ、学校がいじめ問題に無力なのか?』
    答えは簡単、学校組織と教職員達に水平目線が無いからではないでしょうか?
    常に教育委員会⇒校長⇒教頭⇒総務⇒平教員⇒児童・生徒というヒエラルキー構造でしか思考・対応・対処ができません。
    これでは『全人格(全霊)で受け止める』能力が教職員に育つはずはない。

    稀に、それらに疑問を持つ勇気ある教員だけが個人的に対処・対応するだけ。

    また、子ども達は多感な時期をその『ヒエラルキー構造』の下で過ごすことになる。
    価値観がひとつしか無い(いい点、いい学校、いい会社)親達にも、当然そのヒエラルキー型社会において「より上位の序列獲得を目指すことが大事」という発想しかありません。

    それでは子ども達に水平目線が育つはずなどありません。

    ここで、みなさん、では、そのような中で、どうして基町の子ども達(というか龍馬塾に集まってくる子ども達)には水平目線が育つのでしょうか?
    一緒に考えていただけませんか?

    倉原さんが先日橘とのやりとりの中でくれた感想を転載させていただきますと、
    『僕のなかでは(所詮人間弱いが故に)水平目線の扉を開くひとつは、「障がい」、「記憶」ということが、今の世では有効なのではと・・・』ということです。