東北ボランティア記録報告書

龍馬塾は、3名の現役高校生を中心に東北ボランティアに行ってきました。もちろん、コアメンバーである三味線の谷先生をはじめ、Mr.X、ベテラン看護師、お好み焼きのプロ、ソーシャルワーカー、元長距離トラックドライバー、現役幼稚園教諭などなど、多種多様な異色のメンバーで東北へ向けて出発。

日程は8月11日から17日までの7日間!ちょうどお盆ということで、様々な難しいこともあるかもしれないと危ぶまれていたものの、決定!

もちろん、この日までにたくさんの準備を整えてきました。

自分たちにできることは何か・・・。たくさんの案が出たのですが、せっかく広島から行くんだからということで、広島のお好み焼きの炊き出しをメインに、そして、高校生からは東北の子どもたちと楽しいことをしたい!ということで、花火をしよう!ということに、また、夜は三味線で民謡を東北の方々と謡いたいなどと、それぞれのアイディアを持ちより、できることをすべてやろう!という龍馬塾らしい決定に(笑)。

高校生たちは東北にボランティアに行こうと企画が上がった段階から自主的に行動を開始。岩手県陸前高田市のボランティアセンターにボランティアの申し込みや宿泊の問い合わせを行ったり、各企業、団体に支援金を求め動いたり、 お好み焼き屋さんで手伝いをしながらお好み焼きの勉強をしたり・・・!

もちろん、龍馬塾の日にはメンバーでのミーティングにも参加しました。現地でのスケジュールや、準備物などをみんなで話し合いました(詳しくはホームページの23年度活動記録をどうぞ)。

そんなこんなであっという間に当日を迎えたのです。。

6泊7日ともなれば、荷物を積み込むだけで一苦労・・。マイクロバスの中は、予想以上の荷物でスペースをとられ、なかなか大変な環境で、1時間ほど予定より遅れながらもなんとか出発。

11日の夜に出発し、2名の運転手が交代で休憩を挟みながら20時間かけて東北岩手県へ到着。着いたのは12日の17時。この日は到着することが目的で、ボランティア本番は翌日13日から。

ということで、岩手県の平泉にある中尊寺を訪れることに。

平泉は、塾頭の勧めで訪れたのですが、そこは平和都市広島と“平和の考え方が非常に似ている”ということでメンバー全員で訪れることを楽しみにしていたのです。。

ただし、開場時間は17時半まで・・。ということで、ゆっくり観ることはできませんでしたが、それでも静かに厳かにたたずむ中尊寺を眺めることができました。そして、そこで塾頭と塾頭のゼミ生と合流!

そこから初日の宿泊場所である水沢区にある旅館へ。この日は20時間かけた移動疲れをとり、翌日からの英気を養うためにしっかり休みました。

翌日は朝早くから移動。

買い出しを軽くすませ、まずは13日、14日と2泊お世話になる住田町のボランティアセンターへ。

そこは本来公民館だった場所で、広い敷地に立っていました。目の前の敷地はテントを張って宿泊するボランティアの方々のための場所が確保してありました。もちろん、公民館内にもボランティアの方々が宿泊されており、皆さん規律を守って助け合いながらボランティアに従事されておりました。

お盆ということもあり、ボランティアの方々の数は少ないということでしたが、それでも全ての部屋には利用者がおられ、常に人が出入りしていました。

さて、自分たちの部屋を確認し、寝袋などを降ろしてすぐに陸前高田市へ。

いよいよ津波の被災地へ出発したのです。

陸前高田市へは山を2、3越えなければならないのですが、その道中、地震の爪跡らしい爪跡はバスの中からではあまり確認できず(2か所ほど道路が崩れ、修復した個所があったのですが)、メンバーもあまり実感が湧かないままバスは走り続けておりました。

が、最後の山を越え、下りにさしかかり、陸前高田の海が近づいてくると、景色は一変。

その衝撃はメンバー全員に同時に走りました。

テレビで観る被災地は、所詮視界の中の一部分。小さい枠に区切られた景色。視野全体に広がる被災地の酷さは本当に衝撃的でした。瓦礫や車は積み重なって山になり、わずかに残っている建物も全てが廃墟。なにもない土地がずーっと遠くまで広がっていて、車で走っても走ってもその景色が続く・・。震災からはや5カ月経った現在も被災地はやはり被災地で、復興まではまだまだ多くの時間が必要だと改めて実感させられたのです。

被災地を少しでも知るために、まずはテレビでもたくさん中継されていた陸前高田市役所周辺を塾頭の案内で自分たちの足で見て回ることにしました。

降りて初めて目に入る光景。建物全てにつけてある「×(バツ)印」や「(捜索)済」のマーク。。ペシャンコになった車一台一台につけてある記号。。あちこちに手向けてある花束。。バスを降りた瞬間から涙が止まらないメンバーもいました。ショックでバスから降りられないメンバーも。。

亡くなった方々のこと、残された方々のことを思うと、本当にことばが出ないというのが正直な気持ちでした。

そうは言っても、私たちが観ているのは、5カ月経ち、かなり整理されているはずのこの現状。それでこの衝撃。被災直後の情景は想像だにできません。。

お盆という時期もあり、黒い服を着てお参りに来られている方々もおられました。

現在、マスコミでは福島の原発問題が中心となり、被災地の報道は日に日に減っています。ともすれば日々の生活に追われ、忘れていることも多い今日この頃。。しかし、被災地はまだまだ復興までに遠く及ばず、苦しい生活を強いられている方々が多くいる。同時に復興に向けて日々活動されている方々も多くいる。この現状を少しでも多くの人たちに伝えないといけない。その思いは、現地に立ち、強く湧きおこってきました。

その思いを抱きながら、ボランティア第1日目の岩手県立高田高校(一高)のすぐ近くにある仮設住宅地に向かいました。

ここは災害ボランティアネットワーク鈴鹿理事長の南部美智代さんに紹介された場所でした。

まず、仮設住宅の代表の方に挨拶をし、許可をいただき、その後準備。

初日ということで準備はどたばたしましたが、なんとか夕方前にはお好み焼きを焼ける態勢に。

広島風お好み焼きが東北の方々に受け入れられるか心配もありましたが、皆さんとても好意的に接して下さり、評判もまずまずで一安心。

もちろん、ソーシャルワーカーによるマッサージや、三味線も好評をいただき、少しは笑顔の時間、癒しの時間を共有できた・・・ように感じています!

初日はこちらも手探り的要素が強く、延べ20人前後の方としか触れあうことができませんでしたが、とても濃い時間を過ごさせていただきました。もちろん高校生たちも大活躍。お好み焼きを焼く、それをサポートする、来てくれた方々に対応する。それぞれの役割をしっかり担い、それぞれのできることを自分たちで探し、見つけ、実行していました。

仮設住宅には岩手県外の方も多くおられることもあり、また、まだできて間もないこともあり、コミュニティとして形成されるまでにはまだ時間がかかりそうでした。想像していたより活気が低いというのが印象でした。

ボランティアセンターには22時までに戻らないといけなかったのですが、時間ぎりぎりまで粘り、最後は懐中電灯で照らしながら片付けをし、22時5分前にボランティアセンターに滑り込みセーフ。

22時30分まで短いものの一日の反省会を行い、次の日は高田一中の仮設住宅で活動することを計画し、就寝。。

翌日14日。ボランティア活動2日目。

朝は6時30分に起床し、朝食の準備、前日使った食器を洗ったり、バスの荷物整理をしたり、ボランティアセンターの部屋を掃除したり。。

前日お風呂にも入っていないので、希望者のみお風呂に入りに行くことに。最寄りのお風呂まで片道40分。。昼前に全員でボランティアセンターを出発したのでした。

この日はまず、宮城県気仙沼市を訪問することに。

訪問してみると、そこには陸前高田市とはまた違った光景が広がっていました。

まったく手がつけられていない港付近の被災地。信号機も止まったままで交差点のいたるところに警察の方々が立ち、交通整理を。ものすごく大きな船が陸にあがったままで、それが倒れないように鉄骨で支えてあるまま。。瓦礫も散らばったまま。そんな光景でした。

しかし、メンバーは、「陸前高田に比べると空気が軽い」「人がたくさん亡くなった気配が少ない」感じを受けていました。そこで気付いた一つの事実。

それは、陸前高田が非常に片付けが進んでいたのは、「捜索のための片付け」であり、つまりはそれだけ多くの犠牲者がいたこと。片付けが進んでいるのは捜索の結果だったことかもしれないということです。

ここでもまた、復興までの遠い道のりを痛感させられたわけです。

気仙沼を一通り見て回り、16時前後に本日のボランティア活動予定地だった陸前高田一中の仮設住宅地に到着しました。

ここは、前日の一高の仮設住宅地より大きく、敷地内には診療所も整備されていました。

この日は前日の反省を活かし、オタフクソースの幟を持って、高校生が宣伝をしに回りました。結果・・・。

前日とは比べ物にならない行列が20時過ぎまで絶えることなく続くことに・・。

急きょ整理券を発行し、追加の食材を買い出しすることに。。

焼き場はもう戦争状態でてんやわんやの大混雑。

皆様を長時間待たせてしまうことに・・・。整理券を渡し、並ばなくても良いことを伝えても、みなさん並んだまま待って下さっていたのは非常に印象的でした。また、待ちくたびれたはずなのに、笑顔で「ありがとう」と言って下さる方も多くおられ、こちらが救われる思いもありました。

この日焼いたお好み焼きは100枚以上・・。

さすがにMr.Xと高校生2人では間に合わず、お好み焼きのプロが助っ人参加。同時3枚焼きの荒業を見せていただきました!しかし、この数は炊き出しのニーズがまだまだあるということを表しているのだろうとも思います。

一方、行列ができたことはそれだけ多くの人がその場所にいるということでもあり、その時間を有効に利用できるマッサージコーナーの方も客足が途絶えることがなく、高校生たちの企画である花火も、子どもたちを誘い実行できました。

高校生たちはもっと多くの子どもたちと触れあいたかったようですが、私たちが想像していたより子どもたちが少なかったことも印象に残っています。

この日もボランティアセンターに付いたのは21時過ぎ。。ギリギリでしたが、運の良いことにこの日はセンターのお風呂に入ることができ、疲れを癒すことができました。

そして、就寝前に本日の反省かと明日の行動計画をみんなでミーティング。

2日間の経験を活かし、100枚焼くことを上限に定め、それに合った仮設住宅の規模(約100世帯)を選ぶことにしました。ボランティアをするにも、自分たちのできる範囲を知り、その範囲に応じた場所にいかないとかえって混乱をきたし、場合によっては迷惑をかけてしまうこともあることを学習しました。

この日の夜のミーティングはたくさん揉めながらも意義深いものでした。

そして翌日15日。ボランティア活動3日目。この日が最終日です。

まず、朝食の時間。他のボランティアの方々からご厚意でお好み焼きの食材であるキャベツをいただいたり、朝食にとカレーをいただいたりと、朝から様々な温かい触れあいに心がいやされました。

2日間お世話になったボランティアセンターを掃除し、挨拶に行ったときには、持ち帰る予定だった生ごみをセンターの方が引き取ってくださったり最後までお世話になりました。

センターを出発し、一路大船渡へ。

まずは食材の補充のための買い出しと、ガソリン補給。そして、大船渡の港の被災状況を見て回り、大船渡の市役所へ伺いました。

高校生自ら名刺を持ち、市役所の方に仮設住宅の場所と規模を聞き、許可をいただきました。

後で聞いた話ですが、私たちのように個人のボランティアは拒否されることが多いそうです。が、運が良かったのか高校生たちの熱意が伝わったのか、どこに行っても拒絶されることなく、笑顔で受け入れてくれたことは本当に運が良かったと思います。

さて、市役所で100世帯規模の仮設住宅地を3つほど選び、その全てを観て回りました。

なるべく邪魔にならない場所が確保でき、片付けもきちんとするために街灯が近くにあることが理想の場所の条件で、この2日間の活動で学習したことでもありました。

その条件にぴったりはまったのが大船渡にある末崎中学校の仮設住宅地でした。

そこで一番に出会い、声をかけたおばちゃんは、この3日間のボランティア活動の中でも一番好意的で親切で面倒見の良い方でした。まだ仮設住宅地になって間もない場所だったらしく、代表者も特に決まっていないとのことでしたが、被災された市議会議員の方も入っていることを教えて下さり、その方を紹介していただき、許可をいただくことができました。

市議会議員の方も非常に好意的で、閉まっていた公民館をわざわざ開けて私たちの為のトイレを確保してくださいました。お好み焼きの設置に必要な道具も手配してくださいました。

先のおばちゃんに至っては、地域の人たちに声をかけて宣伝までしていただきました。

「こういうボランティアの人らが来るのを楽しみにしてる」

というおばちゃんのことばは印象的で、とても嬉しいことばでした。

「いま一番欲しいものって何ですか?」と聞くと、「食べ物」と返ってきました。

実は、東北に来る前には、炊き出しレベルのボランティアはもう終わったという話も聞いていたので、実際に来てみないとやはり分からないことも痛感させられたのです。

そんなこんなでこの日も大行列の大盛況。

途中、激しい通り雨に見舞われながらも、場所を変え、なんとか最後までやり切ることができました。

この日も100枚以上焼き終え、食材もちょうど底を尽きるくらい使い切り、無事終了。

お世話になった方に使わなかったオタフクソースを東北で使っていただこうと配って終えました。

復興までは本当に気が遠くなるほどの時間がかかりそうな現実を見せつけられましたが、一方ではそこで笑顔で明るく、温かく暮らす人たちと触れあい、同じ時間を共有し、力強さも見せつけられました。

僕らができることは何か・・。

3日間でできたことは本当に小さいことですが、広島に帰ってからもできることはある。まずはこの現実を少しでも多くの人に知ってもらうこと。そのために発信すること。そして、微力ながらも今の気持ちを継続させるということ。これがとても大切なことだと感じた次第です。

この日は初日に泊まった水沢の旅館まで戻り、20時間の帰路に向けての英気を養ったのでした。。

と、その前に。

翌日16日は、朝から仙台に向かいました。

みやぎ被害者支援センターの大場事務局長に時間を取っていただき、お話を伺いに行きました。

大場さん達は「身元不明の死体」と「行方不明家族を探す人たち」を引き合わせ、対面の悲しみに寄り添い、悲しみの緩和を試みる活動をしておられます。本当に苛酷で、辛い、でもとても大切な活動で、その代表を務める大場さんは実際のお会いしても“真の侍”のような方でした。

高校生たちも大いなる刺激を受け、充実した時間を過ごすことができました。

そして、その後、広島へ向けて帰路につきました。

若き戦士たちは疲労の果てにたっぷり熟睡し、夜は覚醒し、昼間広島についたころはまた熟睡していたわけです・・。